回数券を後輩が売ってもらう時の流儀

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僕は電車通勤をしている。電車で通勤をする人は、普通は定期券を買うのだろうが、僕の使っている路線は定期券の割引がほとんどなく(稼働20日のうち1回でも休めばトントンになるという、定期券を購入することに対するインセンティブがほとんどない)、いつも回数券を買うようにしている。回数券は、定期券が渋ちんのくせに割と太っ腹で、10枚買うと1枚付いてきて、10枚の金額で11枚購入できる。例えば、切符金額が200円であれば、2000円払えば2200円分の切符が購入できることになる。
 
回数券は金額的なメリットはあるのだが、たまに罠にはまることがある。それは、回数券を定期購入していることからくる油断で、いつも割と大量の切符が財布に入っているため、電車に乗る前に切符を買う習慣がなく、電車がきそうなのに切符あるからといって余裕ぶってのんびりあるいていると、実は切符が切れていて、嗚呼、となることがあるのである。一人でいるときは、くそがぁーとかいいながら、マッハで券売機で切符を購入し、階段を駆け上った挙句乗れないという悲劇が何度か繰り返されているが、同じ路線を使用しており、降りる駅も同じ会社の後輩が一緒にいるときには、『やい、切符一枚よこしやがれ』なんていいながら1枚切符を譲ってもらって、悠々と電車に乗ることができるのである。
 
切符の定価は200円だが、実際は回数券で購入しているため、実質の切符の価値は180円程度ということから、間をとって190円を支払うことでお互いWINーWINの関係を築くことができる(僕は定価より10円安く買えて、彼は支払い額よりも10円儲かる。鉄道会社に20円くれてやるよりもよっぽど良い)といって、そういう状態でのお金の支払いルールとして決めている。まあ、お前先輩なんだから普通に200円払えよだとか、その場の需要と供給を考えれば、お前は後輩の言い値で切符を買うべきだとかいう批判は甘んじて受け入れるとして、そういうルールになっているという純然たる事実は変えようがないし、両方とも得をするということは生活をいい感じに仕上げていくのを持続する上での工夫でもあるし、なにより、彼が同じ状態に陥ったときでも同じ対応をするのだから、それでいいのだ。
 
そんななか、とある日、別の後輩が同じ状態に陥った。その後輩は、先述の後輩よりもさらに後輩なので、後後輩とでもしておく。そのときは、僕も回数券がないことに気がついて、後輩に譲ってもらう話をしていたのだが、その後後輩も切符がなかったらしく、『僕も』といっておもむろに190円を差し出してきたのである。
 
これまで、190円での切符の売買はなんの違和感もなく、僕と後輩の間で行われてきたのだが、その後後輩が『僕も』といったとき異様な違和感を感じた。というのも、先の話はお互いWIN-WINだというようなトーンで話をしていたのだが、この取り決めには裏の顔があって、180円で後輩が購入して保持ている回数券を190円で売ってもらうという行為は、言い換えると、『10円やるから切符売って』ということで、もっと具体的にいうと、『10円やるから切符買ってこい』ということになるという側面をもっているのである。
 
さらにもっというと、本来その後後輩が準備しておくべきだった切符は、11枚綴りなので、往復で最大5日前には購入することになるが、その5日間、後後輩は後輩に180円を借りていたことになる。180円5日借りるということは、厳密にいうと、180円5日分の金利分まで後輩から奪っていることと同値となる。
 
先の後後輩が咄嗟に放った『僕も』というのは、実は、先輩に向かって、『10円やるから切符買ってこい、ついでに、5日後に返すから180円貸してくれや、もちろん金利は払わん』というのと同義語であり、僕なら口が裂けても言えない。
 
そのように考えると、先輩に対して、切符を売ってもらうときには、その金額の多寡にかかわらず、前置きとして、すみません、大変失礼な話かもしれませんが、できれば、切符を購入するのを忘れていたので、1枚切符を譲って頂けないでしょうか?あ、もちろんタダでとは申しません、10円上乗せして190円、いや、単品購入時の定価、200円でも構いません。この行為が先輩の180円の分の機会損失を過去および未来に対して発生させる可能性があることはわかっております。そこは重々承知しておるのですが、そこを、なんとか、お譲りいただけませんでしょうか?というのが正しい。
 
そこまで言ってくれれば(思ってくれれば)、僕でも気持ち良く、そんなの気にするな、切符くらいやるよ、金はいらんと言ってやれるのだが、190円を手にして、『僕も』というような輩には上記のような演説をしてやりたくなってしまう。
 
このような例を考えてみると、この例では180円くらいでそこまでいうかという感じしか受けないのだが、別な見方をすると、人を気遣ったり、人に優しくしたり、人に敬意を払うという行為は思ったよりも難しいことがわかる例でもあると思う。人に優しくしなければならない、ということは、世の中では割とよく聞くフレーズだが、人に優しくしたり、気遣ったりすることは、その人が置かれている背景や、それがどのような結果になるのか、を良く考えた上で実施しなければ、思ったような結果に結びつかないことがあると思う。
 
よく考えると、優しいという漢字には『すぐれる』という漢字が当てられている。これは、なるほど、よく考えられるすぐれた人がやさしくできたり、気遣ったりできるということを表しているのかもしれない。
 
と、いうことで、バファリンは間違いなく効くんじゃないかと思う今日この頃です。