悲劇あれこれ

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ブログの更新が滞っておりました。
 
というのも、僕のMACBOOKが三男(1歳)にペンで突かれることにより、画面が割れるという事件が発生したため、購入後1ヶ月で入院するという悲劇が巻き起こっていたからだ。この件に関してはアップサポートの神対応により無償修理でことなきを得たのだが(通常は、落下等の画面割れは保証の範囲外になるため5〜10万円程度の修理費がかかるのだが、今回は1歳児がペンでつつくという通常ありえないシチュエーションであるということから、また、購入後1ヶ月というところを情状酌量いただき、無償で修理していただけることになった。)、このような悲劇は二度と繰り返してはならないなと、深く反省して、ブログの更新を再開する次第であります。
 
悲劇と言えば、昨日の同期の飲み会で頼んだタコワサをズボンの上にこぼしてシミができた。他にも、これまでこれ系の悲劇でいえば、社食で中華春雨(皆さんがおもっているより汁が多いやつ)が好きなので、2個とったあげく豪快にズボンにぶちまけるという快挙を成し遂げたことがある。日常に潜む悲劇はこんな感じでたくさんあるので、注意が必要だ。
 
こんな些細なことが悲劇であるというのであれば、お前、パレスチナの人に謝れと言われそうだが、僕にとっては明らかな悲劇である。悲劇が絶対的なもので、例えば数値化できるとして、0点の人は、バッチリ幸福、あなた、いいですね。という感じで、100点の人が、もう死にそうなくらいだと表されれるとすれば、その主張も正しくて、パレスチナの人は80点、MacBookの画面割れは10点、春雨は2点、タコワサにいたっては四捨五入すれば0点、バッチリ幸福の部類に入るのだろうが、僕には、悲劇といのは、絶対的に一律に決めることはできないものであるように思える。
 
『今日はシャトーブリアンが食べたかったのに食べられなかったわ〜、へこむわ〜。悲劇だわ〜。ところで、君は食べた?シャトーブリアン?』などという人がもし目の前にいたら、なんだこいつと思うと同時に殺意が湧いてくる。しかし、『私、太ってきたんだけど、白鵬よりはマシだからオッケ〜』という女の人がいれば、あなたはそれでいいのですか?と問いたくなる。
 
この二つの事例は矛盾している。前者は自分の普通の状態から少し悪くなったことを悲劇と捉えているが、後者は悲劇と捉えていない。しかし、我々は、自分の尺度に照らし合わせて、その発言を判断し、羨んだり、蔑んだりするのである。前者の場合を考えると、もし、この人が、(そんな人は現実にはいないが、財力でそれを実現できるような近しい人はいる気がするのだが、)頭の中で思うだけでなんでも望み通りのものが手に入る能力をもつ特殊能力をもつ人だとすると、確かに、シャトーブリアンが食べられなかったら悲劇であるだろうなと想像できるかもしれない。マリーアントワネットがパンがほにゃららといったというのは嘘かまことか知らないが、彼女にとっては、パンがなければケーキを食べるということが、至極当たり前のことであり、至極当たり前に発言したにすぎないのかもしれない。
 
悲劇や幸せを人と比べてどうこういうことは、筋違いであるのではないか。彼、彼女にとっては、幸せ、悲劇であったとしても、僕にとっては、まったく逆であることだってあり得るのだと思う。あの人はいいなと隣の芝生を青く思うことは、幸せや悲劇の度合いを絶対的な数字で表せると言っているのと同じである。
 
彼、彼女が戦争で食べられるものがないのと、シャトーブリアンが食べられないのと、タコワサをズボンの上にこぼすのでは、それぞれ、一見悲劇の度合いは大きく異なるように思えるが、悲劇かどうかを決めるのは、とどのつまり、悲劇に遭遇した本人がどう思うかが全てだ。
 
よって、MacBookが壊れたことも、タコワサをこぼしたことも、中華春雨をこぼしたことも、今の僕にとっては明確な悲劇であり、それ以上でもそれ以下でもないことを報告しておきます。