産地擬装問題の問題点

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少し古い話になるが、一時期産地擬装や品種擬装、賞味期限切れの問題が話題になった。静岡産うなぎと謳っておきながら中国産だったとか、ブランド地鶏と謳っておきながらただの鶏だったとか、そういう類のものだ。その時は、立て続けにそんなニュースが流れていたため(なぜか一度とある問題がおこると、同じような問題がニュースで流れると感じるのは、気のせいだろうか。ちょうど社会のひずみが同じようなタイミングで露呈するのか、報道が似たようなニュースをほじくり返してくるのかは僕は知らないが、回転ドアに子供が挟まれた事故の時とかも同じような公園の危険遊具だとかのニュースがたくさん流れていた。不思議。)、世間では『けしからん』とか、賞味期限切れの問題に対しては『健康被害があったらどうするんだ』とか、大層厳しいトーンの意見が流れていたような気がする。特に、その時は老舗がやらかしていたので、老舗なのに。。何を信用していいかわからん。というような風潮もあった。
 
産地擬装や品種擬装、賞味期限切れに対しては、企業の姿勢が問われるため、そのこと自体は大きな問題であると思うため、批評は大いに結構だと思うが、実際に被害(ここでは被害というが、御察しの通り、僕は産地擬装のものを食べた人のことを対してたいして被害者だとは思っていない)にあわれた人たちが、お金返せとなるのは、少し大げさであり、恥ずかしいことであると思う。
 
なぜそんなことを言うかというと、産地擬装で騒いでいる人たちは、食事を食べ終わった時にあ〜おいしかった、さすが◯◯産の◯◯ね。あぶらのノリが違うわ。などと言って、そのブランド性にうっとりとした上で、騙されたことに気づいた時に、騙された!!となって怒っているのである。一般的なブランドもののニセモトと異なり(例えば、ヴィトンのバックとそのニセモトとでは耐久性が違うことなど)、食べ物は味と、栄養(体に悪いものの含有有無も含んだ広義の栄養)とその場の雰囲気がすべてであり、栄養を除けば、食べた後にその人の魅力や価値が上がるものではないため、その価値はその場で完結しているということができる。(栄養は確かに、食べた後でも持続的にその人に影響を影響を与えるが、産地擬装や品種擬装品とそこまで栄養という観点で変わらないだろうし、賞味期限切れのものを食べたって、結局腹をこわさなければ一緒である。ダイオキシンとかそんな類のものはそもそも今回取り上げている議論とは少し異なるので除外する。)そういった意味で、その場で満足できたのであれば、その後に文句をいうのは少々お門違いだと言わざるを得ない。
 
本当に今回の問題で文句を言っていいのは、食べたその瞬間であり、また海原雄山を例えにだすと、む、これは。。店主をよべ!!となるべきだし、とゆうか、産地擬装にかかわらず、店の当たり外れはある程度仕方のないことであるので(うまい食事屋を見つけるのはギャンブルと同じだと思う)、その後その店にはリピートしなければいいだけなのであって、事実がわかった後でなんだか損した気分になったという理由だけで文句をいうのは少し恥ずかしいことだと認識してもらいたい。そこで文句をいうことは、自分が未熟であったことを声を大にして周りに主張していることと同じなのだ。産地擬装のその構造的問題点については、社会的に批判されるべき問題だとは思うが、食べた人がそのことについて不満をいうことについては、不満を口にするまえに、その貧相な味覚や、ブランドだけで美味しいと言ってしまう、その思考の流されやすさを改善した方がいいのではないでしょうか?と言いたくなるのは僕だけなのでしょうか。
 
たぶん、僕なら、その味や雰囲気が満足できるものであれば、産地擬装を聞いても、うまかったし、別にいいやと思うだろうし、食事の当たり外れは、それも含めて楽しんでいける方が人生有意義に過ごせる気がしてならない。
 
P.S. ペンタブでお絵描きという高等技術を繰り出す長男
 

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