街角募金という愚行

sponsored link

ブログを開始してから早いもんで2週間が経過しようとしている。当初開始した時はこんな勢いでいくとは思わなかったが、なかなか、書くネタが尽きる気配はない。ただし、思ったよりも頭の中を書き出すということは熱量がいるし、このモチベーションがいつまで続くかはよくわからない。

 

学生時代はそこそこ大きな街で暮らしていたので、繁華街を歩いているとよく、世界の恵まれない子供達に愛の手を、とか、盲導犬の地位向上のためどーたらとか言って街角募金をしている集団を見かけた。

 

やっているのは学生が多く、特に、中学生とか、高校生とかが7、8人突っ立って、一人が、『******に募金をお願いしま〜す』とか言うと、他の人が、『お願いしま〜す』というのが大体のお決まりパターンで、一度募金をしようもんなら『ありがとうございま〜す』などと大声で言われるので、あれは、募金をしようとしている人でも、シャイな人は募金しにくいだろうななんて目で見ていた。

 

僕は、募金自体は否定的ではないし、どちらかというと、反資本主義的な面を持っているので、ユダヤの汝の収入の1割を分け与えよというリベラルな教えにも、まったく共感できるし、コンビニのお釣りなんかは積極的に募金していくタイプなのだが、街角募金については、どうもいただけないと感じることが多い。

 

街角募金をやっているところを見ると、そこに立ってじっと見ていたわけではないので、どの程度の効率で募金されているのかはわからないが、1分に1人も募金していないように見える。5分に1人が関の山なのではないか。もし5分に1人募金したとして、平均単価が100円だとしても、1時間で1200円である。もし、朝の8時から、夕方5時まで、昼の1時間休憩を挟んで8時間募金活動をしていたとしても、9,600円程度しか集まらないことになる。仮に、1分に100円入れてくれたとしても、48,000円しか集まらない。

 

元気な若者が7、8人、1日拘束されて、9,600円〜48,000円しか集まらないのは、はっきり言って、無駄な労力だ。

 

街角で募金活動をするならば、1人でやる方が効率がよい。もっというと、街角募金をするよりも、◯崎パンでひたすらサンドイッチにパセリを挟んでもいいし、アリさんのように、荷物を必死に2階から1階に下ろしてもいいし、その賃金を募金した方がよっぽど効率的であると思う。(これなら、8人でやれば、確実に80,000円いける。)

 

こんなことを言うと、募金活動が周知されないからという人が出てくるが、それだったら、『ただいま募金のために◯崎パンでパントレーを絶賛パン焼き機に搬送中,**高等学校ボランティア部』などと立て札を置いて、それぞれの顔写真を貼った人形でも置いておけばよいのではないか。

 

この例が特異点ではなく、ボランティアとか、寄付とか、いいことをしようとしている人たちは、その成果如何にかかわらず、その行為自体で満足してしまう傾向にあると思う。しかし、本当に募金活動を真剣に考えているのであれば、もっと、プロセスよりも成果に目が行くはずだし、もっというと、募金のために、個人で成功しようというモチベーションもあっていいのではないだろうか?

 

僕はひねくれクソ人間なので、あえて言わせていただくが、ボランティアとか、募金とかは、人の善意に甘えている側面が強い。なんか、『いいことをするから、皆さん協力してくださいね?』なんて、口当たりのいいセリフで誘ってくるが、その実、『お前ら、俺がいいことするために旗振るから、金よこしやがれ。成果は俺のものだかんな。』みたいな、上司にしたくない人ランキングに出てくるような中間管理職のようなもんだと思う。旗を振るだけならアホでもできる。有能な作業者がいるからこそ成り立つのである。

 

この文章をみて悔しいと思う人がいるのであれば、世の中の人々を救いたいと言って事業を起こして(それは、それこそ、カジノでも不動産でもなんでもいい)、どんどん会社を大きくして、それを売り払って、100億儲けて、それを全額募金してもらえると、ああ、この人は真のボキナーなんだな、えらいな、と心から思えるし、もし名乗り出てくれるのなら、あんた、えらい!と言ってあげます。

 

同じことはペットボトルの蓋を集めてしまう小学生にも言えて、ペットボトルの蓋を集めるくらいなら、お母さんの肩をたたいて100円もらって募金した方がいいと思うのは僕だけではないはずだ。