カレー味のうんこに関する考察

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先日の記事でうんこ味のカレーとカレー味のうんこでは、うんこ味のカレーを選ぶのが賢い選択だというライフハックを提供したところ、とある人から、カレー味のうんこのうんこの部分に細菌がたくさんいるのは理論の飛躍ではないかというご指摘をいただいた。

 

彼がおっしゃるには、どうやら、かれは生まれてこのかた、この質問の『うんこ』については、ツバメの巣(ツバメの唾液がかたまったもの)や、どこぞの国の最高級コーヒーである、猫のうんこのコーヒーみたいなノリで、それそのものが食べ物であることが前提のうんこだという認識をしていたようで、カレー味の(誰のうんこかはわからないが、食べられる前提の)うんこの一択だ、何か文句あるかとのことである。

 

しかし、食べられる前提の細菌などないうんこであれば、もはやそれは食べ物であって、それをいうのであれば、逆を言えば、普段たべている肉だって言い方次第で『生きた牛を虐殺して焼いた筋肉』とでも言ってしまえばなんやらきもちのわるいものに聞こえるのと同様、それは言葉のお遊びであって、ここでいう究極の選択としてのうんこはやはり普通のうんこであるべきだと思う。食べ物ではないので究極なのであって、究極の選択としてカレーと比べるべきは、『うんこ』がかなりいい線いっているということではないだろうか。

 

さて、ここで気づいたのだが、昨日から今日まで、異常なまでにうんこと打ち込んでいるところが少々気にはなる。もはや、買ったばかりのMacbookproのキーボードのU、N、K、Oがそこだけピカピカになって、念願のスタバであたまに『スタバでどや中』のハチマキをまきながら悦にひたるという行為中に、ふと後ろの通路を通った女性に、『この人キーボードのU、N、K、Oだけくたびれているわ、気持ち悪い』と思われるのではないかと思うほど不安が募っている。

 

また、先の文脈内で、『究極の選択としてはうんこがかなりいい線いっている』というようなことを書いたが、これまで生きてきて、覚えている限り、うんこがいい線いったことなどないし、『普通のうんこであるべき』という記載に至っては狂気すら感じる。

 

小学生の時に教育実習生をみて、なんだか大人だなぁという感情を持っていたのだが、今思えば、彼らも二十歳そこそこの若者だったわけであり、今の僕なんかよりもずいぶん若いはずだ。小学生だったから、二十歳の人間でも大人と感じることができたのか、それとも、ただ単に、僕がダメダメすぎて、ただ単に、彼らがしっかりして見えたのかは、今となっては知る由もないが、これこそ、前者が正しいか、後者が正しいのかについては、うんこがいいかカレーがいいかなんかよりもよっぽど自明なのではないかと思ったりもするわけです。