怒らない方がよいと思います

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たまには真面目に。多少意味がわからないと思いますが、特に、何の狙いも、考えもなく、自分の覚書程度に書き連ねます。

 

喜怒哀楽という言葉が示すように、人間にはさまざまな感情が備わっている。感情というのは、以前のくすぐったい感覚が何の役に立っているかわからないという記事にかいたように、二人以上の人間が社会を形成する時に、そのコミュニケーションツールとして、種の繁栄をよりたしかなものとすべく、人間に身についたものと考えるのが自然であると思う。逆に言えば、以前も言ったが、そういう機能をもっているからこそ、現時点で地球上に繁栄できていると言った方がいいかもしれない。

 

喜ぶという感情がなければ、人は何か喜ばしいことをしないだろうし、楽しいという感情がなければ、人は楽しいことをしないだろうし、哀しいという感情がなければ、人は哀しいことをしてしまうだろう。この3つの例に限って言えば、その感情が備わっている方が、その感情が備わっていない時よりも、よりよい社会になりそうな匂いがプンプンする。そこで、怒りですよ。怒りという感情がなければ、どういう世の中になるのだろう。なんとなく想像するに、怒りという感情が理解できないと、他人に嫌なことをしてしまうだとか(つまり、怒りという感情を知っているからこそ、他人に対する嫌なことをしないという抑止力になるという考え)、怒ることによって、『俺は本気なんだぞ』と集団のリーダとして他の人を動かすことができなくなるだとか、そういうことがまず思いつく。

 

だけれど、前者は怒ること自体を肯定していないし、後者は本気で怒ることが必要でなく、他人に怒っている(らしい)ことが伝わればそれでよい。もっと具体的にいうと、前者は自衛隊のように、抑止力にはなるけど、使うことを肯定していないような性質のもの、また、後者は本気であることを他人に指し示すことの手段の一つとしては、『なんだか怒っているから怖いな、従おうかな』という気にさせるものであるが、それは、リーダ自体は本気で怒っている必要はないし、もっとべつな、しつこい、とか、声が大きい、とか、具体的な目標を明示する、とか、ほめるとか、もっと別な手段でもいいはずだ。

 

頭のいい人はこの考え以外にも何か怒りという感情をもっとスマートに説明できる事例を挙げられるのかもしれないが、僕の頭ではこれが限界で、これが正しいとすると、怒りという感情は自動的に社会をよりよい方向へ導く必要悪であって、怒ることそのものは誰も肯定していないようなものなのではないかと思う。

 

そこまで考えると、子供の頃はよく癇癪をおこして、大人になると冷静になっていくという事象は前者の意味でも、後者の意味でもすっきりと理解できる。(つまり、子供の頃に怒りという感情を使って、覚えて、大人になっても覚えているけど使わない状態が社会として好ましい状態であるということ)

 

上記理屈が正しいとすると、大人が怒ることでいいことなんてないはずで、その方が僕的にはすっきりする。まず、怒っている本人は冷静な判断ができなくなる。怒られた方は嫌な気分になって、もっというと、嫌な気分を通り越して、その人も怒ってしまうかもしれない。だいたい、世の中の争いは、怒りによって支配されていることが多い。怒りがなくなれば争いはなくなるとは言わないが(様々な戦略的争いは避けようがないと思う)、無駄な争いはなくなると思う。

 

よく思うのが、親が子供にヒステリーチックに怒っているのを見ていると、あなたは、怒りという感情を使ってなにをしたいのか小一時間問い詰めたくなる。怒ろうと思って怒るのはいいが、怒りたくないのに怒ってしまうのは問題がある。前者は狙いがあってしていることなので、本人はいたって冷静なので、狙いをもって子供を教育することができる。後者はただ単に、悲しいかな、人間が社会性を維持するための、必要悪としての、怒りという感情を持て余しているだけに思える。ひどい言い方をすると、あなた、まだ怒る感情を勉強中ですかと言いたくなってくる。

 

ちなみに、小さいときは何かにつけて癇癪をおこしたはずなので、怒りというのがどういう感情なのかは知ってはいるが、上記理屈を知ってか知らずか、僕はここ数十年本気で怒った記憶がない。家族を統率するために、妻や息子に、会社内で議論を有利に進めるために、怒ったふりをすることは多々あれど、本気で、腹が立って、腹が立って、何をしていてもそのことが思い出されてしまって仕方がないということがない。からこそ、怒るという感情の意義について非常に興味があるのである。