お化け屋敷とジェットコースターと部屋とTシャツと私
人間にはさまざまな感情が備わっていることは以前のブログにも書いたことで、その時は、怒りとはどういう感情かわからんみたいな論調だったのだが、僕には、実は、もう1つよくわかっていない感情があっ『た』。それは、怖れという感情で、普通に考えれば、怖れというのは、原始時代から、例えば、マンモスに襲われたときなどに、出てくる感情で、1度それを覚えることで、自分を危険な状態に再びさらさないための機能として備わっていると思われる。
そう考えると、お化け屋敷とか、ジェットコースターとか、あえて怖い体験しようとするのは、どういうモチベーションで行われているのだろうか?
僕らがお化け屋敷とか、ジェットコースターとかを進んで体験してしまうのは、別に、今度お化けに会った時にスマートに対応できるようにとか、ジェットなコースターに日常生活や仕事とかで乗る必要にせまられた時に、ふふんとか言って難なくこなす為の予行演習だとは思いづらい。
むしろ、彼らは、怖がることを(僕は怖いのは嫌いなので、楽しめないが)楽しんでいるように思える。怖いという感情は基本的には必要悪みたいなもんだと思うので、学ぶ必要がないのであれば、出来れば経験しないに越したことはない、と、僕は思うのだが、どうでしょう?
とか、考えていた時代もあったのだが、これについては、先に「過去形」で書いて匂わせた通り、すでにひとつの結論に到達している。
よく、『どきどきしたい』という、女子中学性みたいな頭の沸いたフレーズを恥ずかしげなく言う人をみかけるが、たぶん、これは、そういうことなんだろうと思う。
子供の頃は何でも新鮮で、どれもはじめてやることなので、少しやっただけで上達して、それが、わくわく、ドキドキして、改善している自分が楽しくて仕方がないという経験を誰しも通っているはずである。それは、自分の息子たちをみていてもよく思うことで、奴らは何故あんなにふつうのことでも大笑いできるのだろうと、いつも感心している。でも、大人になるにつれて、できることがどんどん増えていって、その1つ1つのレベルもどんどんあがっていって、なかなか簡単には上達しなくなっていって、それを突破できるのは一握りの天才達だけで、わくわくしなくなって、いやになって、というパターンに陥いるのが、一般的だと思う。
日常的にあまり経験したことがなくて、ドキドキする、お化け屋敷とか、ジェットコースターとか、海外旅行とかを楽しいと感じるメカニズムはそこにあると思われる。
つまり、人は、自分の成長感の無さから来る、飽きという感情を持て余して、お化け屋敷にここぞとばかりに突入するのである。そして、それは、自らそういうところに突入していって、自分を騙して、お手軽にドキドキを味わいたいという、ある意味、オ○ニーみたいなものであると僕は思う。
よって、自分の欲を貪欲に自ら解決しようとするジェットコースター大好きっ娘などは、確実にエロいという結論に達してしまうのは仕方がない。
エロいくせに、厭世的で、でも、更なる突破をするほどの運も、実力もなく、それでも、改善するよろこびを味わいたくて、もがいている女子を大量にみることができるため、その筋のド変態には、長島か富士へ行くことを強くおすすめする。
いつもにまして結論がひどくなってしまったが、悲しいかな、ロジカルというのは残酷なものであると割りきって、人生を力強く歩んでいくことを宣言して、締めの挨拶とさせていただく。ご清聴ありがとうございました。