日本にある食堂でおいもを残すということ

ある日食堂で昼飯を食べていた時に、とある人が、ハンバーグか何かの添え合わせの芋を塩で茹でたのを、味が美味しくないからといって(芋を塩で煮たのにうま芋まず芋ないと思うのだが、)残した。別の日には、とある人が、ハンバーグか何かの添え合わせのスパゲッティを、味が美味しくないからといって残した。さらに、別の日に、僕は茶碗蒸しに入っている銀杏が理解できないので、これもまた残した。さらには、別の日に、酢豚にはいっているパインアップルも理解できなので、これもまた、当然のごとくお残しした。
 
基本的にはお残しは良くないことだと小さい時から教えられているので、お残しをする時には、何に対してかはわからないが、お残ししてすみません、という不思議な気持ちになりながらお残しをする羽目になる。お残しはいけないは少なくとも日本では共通認識として、道徳的に正しいものだと認められれていると思う。なぜ、お残しはいけないのだろうか。
 
食べ物を食べるということは、自分以外の生をいただくことになる。無駄な殺生はしないほうがいいと言うのは、至極まっとうな考え方だと思うが、先の食堂のメニューの付け合わせを残すという行為は少なくとも、すでに殺生されているものであるから、それを残そうが、残さまいが、お芋も、小麦も、銀杏も、パインアップルも生き返るわけではない。目の前にいる鶏をしめて食べないという行為は、無駄な殺生になると思うが、すでに自分以外の誰かが殺生したものを食べないということは、少なくとも現代においては、無駄な殺生に当たらない気がする。そういう意味で、無駄な殺生になるから、お残しするときに罪悪感を感じるというのは、少なくとも社食においては、的外れな感情であると思う。
 
よく、『世界の貧しい国では、その日1日食べられるものがない人だっているんだよ。だから、お残しはいけないよ。』というようなことをいうお母さんがいる(かどうかは知らないが、なんとなくそんなフレーズを聞いたことがある。)が、はっきり言って、そんなことは知ったこっちゃない。じゃあ、お前、この銀杏を腐ることなくアフリカに届けてくれるんだな、あぁ?そうなんだな?じゃあ今すぐ銀杏持って成田に行け。とでも言いすぎたくなる。ということは、これもまた、現代日本においては、的外れな意見と言わざるを得ない。
 
僕は、お残しをするということは、もっと生々しい理由でダメだと言われているように思う。上記理由のような、きれいごとではなく、もっと、エグい理由でお残しはいけないと言われているような気がする。
 
食べ物を残すということは、その食べ物をそこまで欲していないということである。それを他人に見られるということは、その食べ物をそこまで欲していないということを他人に認識されることである。他人に認識されるということは、何かあったときに、その食べ物残してたよね?あまり好きではないんだよね?と言われてしまう隙をその人に与えることになる。お芋を残すということは、他人に『この人はお芋優先度が低い人』というレッテル、および、弱味を提供することに他ならない。
 
お芋が世界に無限にあれば良いが、残念ながら、お芋は世界で有限個数しかない。よって、お芋を強く欲する人(それはお金という指標で配分されるのだが、)に優先的にお芋は配布されることになる。そうすると、お芋を残したことがある人は、残念ながら、その優先度議論をしたときに、ほんのすこしだけ、不利なポジションに立たざるを得なくなるだろう。
 
そう考えると、食べ物を残す時には、上記リスクをよく考えながら残した方がよい。例えば、何かあった時に、なくてはならない、人工支持率の高い食べ物である、米、小麦、芋などの炭水化物はお腹がいっぱいであっても、『わたしは、炭水化物に目がなくてねぇ。えへへ、おいしいなぁ。(よく覚えておいてくださいね。この光景。)』などと言いながら、他人にアピールしながら食べた方がよい。また、そのような食べ物を残す際には極力人知れず残すことをお勧めする。
 
一方、銀杏やパインアップルなどは、なくても割と困らないので、そこまで抵抗なく、お残ししてもいいため、僕が本能的に、あまり好きでない添え合わせに分類していた茶碗蒸しの銀杏、酢豚のパインアップルについては、かなり正しい判断であることがお分かりいただけるだろう。
 
以上が、以前、とある人が芋を残した時に、散々、『お残しはいけない』といって批判したため、僕が、銀杏を残した時に、『あなただって、お残ししてるじゃないか』と批判返しされた時に思いついた言い訳です。
 
終わります。